針臓
原案:メトロ 著:サイドテイカー
朝起きると、心臓に針が刺さっていた。
比喩でも誇張でもない。因果も脈絡も無い。ただただ唐突にシャツをはだけさせると、裁縫用の縫い針が深々と左胸に食い込んでいるのが見えた。針の長さは不明だが、縫い糸を通すための穴が肌の上にちょこんと顔を出している。それが酷くリアルで不気味だった。どうしてこんな事になったのか分からない恐怖よりも、むしろその光景そのものの方が怖かった。
痛みは無い。もうすぐ死ぬのだという確信のみがあった。自分の身体の事は自分が一番よく知っているし、心臓に針が刺さったまま半時も生きられる人間が居る筈もない。持ってあと半時間。そんなところか。
そこまで考えて、友達との約束を思い出した。そういえば今日は友達と映画を見に行く約束をしていた。集合場所たる地元の小さな映画館までは歩いて10分。生涯最後の瞬間に映画鑑賞という幕切れも悪くはない。気にせず出かける事にしたわたしは、身支度をすべくベッドから身を起こした。やはり痛みは無い。全身に血液を送り出すポンプだけにそれなりに頑丈に出来ているのだろうか。
着替える。手を洗う。うがいをする。顔を洗う。コンタクトを付ける。歯を磨く。
普段は無意識に行っている一連の動作がいちいち新鮮に感じられる。どこかが不随になった訳でもないのに。恐らくは、死を目前に生に対して敏感になっているのだろう。
朝食は現地調達でいい。映画を見ながら友達とポップコーンを食べれば事足りる。あいつはポップコーンが大好きだから。
鍵を掛けて、家を出る。いつもの住宅街、いつもの商店街を歩く。いつもの雑踏を掻き分ける。人々はいつもと何ら変わらない。当然、わたしの心臓の針など知った事ではない。畢竟あいつも――
ズキリ。
不意に鈍痛を訴える心臓。
同時に、友達にどう説明すべきかについて何も考えていない事に思い当たった。一緒に映画を見ている最中にコテっと逝ってしまったらあいつはどう思うだろう。悲しんでくれるだろうか。何にしても、あいつには迷惑がかかるだろう。では予め死ぬ事を告げればいいのか。いや、それにしたって気分が良いものじゃない。わたしだって「わたし、あと半時で死ぬから」なんて友達に言われたらどんな顔をしていいか分からない。
結局、その足で病院に向かった。
受付嬢に「心臓に針が刺さった」と言ったら面白い様にお客様扱いされた。顔面蒼白を体現した受付が奥に駆け込むのを見て、この前風邪を引いた時もこの位なら良かったのだが、と内心クレームをつける。それに応じる如くに、医者が他の患者を差し置いて一番にわたしを診察室に招き入れた。
受付と違い、医者は至極冷静だった。まあこの程度で動揺しているようでは医者など務まるまい。とはいえ少々冷静過ぎる様な気もする。恐らくは、医者が一人ではなく十名近く居て、皆一様に動物を見る目でわたしを観察していたからだろう。それらは到底人を見る目とは言えなかった。二十個近いガラス玉の眼球が、揃ってわたしの方を向いていた。哀れむでもなく。嘲るでもなく。見るというよりは単に眼球を固定しているだけ、といった風情で、医者達はわたしの周りを囲んでいた。
「ちゃんと見て下さい」
わたしはたまらず言った。痛みと不安を誤魔化す様に患部を見せ付けて。
医者達が無反応なので、自分は死ぬのかと訊ねた。訊ねつつも、自明の事をわざわざ訊ねる自分が滑稽で思わず笑いが込み上げた。
医者達は答える代わりに、「痛みは少ない。ただ吐き気を伴う」と宣った。
「痛くはないけど苦しいんですね」
わたしが問うと、医者達は笑って
「大丈夫。それまでには終わっている」
と言った。
何が終わっているのか。訊いても医者は答えなかった。
死にたくない………初めてそう思った。
「死にたくない」
口に出した。
しかし、医者はもう答えなかった。
わたしを含めた最近の若者が、死ぬだの殺すだのと軽々しく口にする理由が分かった様な気がした。
了